(22) 苦手な人 ⑤正論をふりかざす人

「正論」は暴力?

「正論」は暴力と言われることがあります。
言っていることは、間違いなく正しいのです。

それはよくわかります。
でも、後味が悪く、すっきりしません。

ネットに、以下のような「つぶやき」がありました。

「あなたのその正しさは私にとって、どんないじめより痛い」

このように「正論」は、人を傷つけることがあるのです。

「正しいこと」なのに、なぜでしょう?

「正論」とは?

「正論」は、誰でも知っていて当たり前のこと、誰でもちょっと考えればわかるような普通の「正しい意見」のことです。

ところが、
「正しい意見」で、皆が納得したり、怒りを覚える人もいない場合、

それは「正論」とは呼ばれないのです。

では、どういうものが「正論」と呼ばれるのでしょう。

「正論」に対しては、
●正しいんだけど、なんか違う
●理屈は通っているんだけど、納得できない
●間違ったことは言ってないんだけど、すっきりしない

と思ってしまいます。

「なんか違う」「なんか納得できない」と思っているのに、
「正しい」ために有効な反論ができないとき、「正論」と呼んでいるようです。

「正しい意見」なのに、なぜか言葉の暴力になってしまうのです。

いったい「正しい意見」は、どこで攻撃性をもつのでしょう。

「正しい意見」が攻撃性をもつとき

たとえば、「弱い者いじめはしてはいけない」。

これは正論ですね。

「いじめてはいけない」という主張は、「いじめられている人を救う」正義の行動でもあります。

ところが、弱い者いじめをする人は、
「弱い者いじめをしてはいけない」ことくらい分かっています。

ですから、反論できません。

その結果、
「正論」は、その人を追い詰めていくことができます。

そのとき、
「いじめられる人」を救うための「正論」は、
「いじめる人」への「いじめ」となり得ます。

「弱い者いじめはしてはいけない」という「正論」そのものが、
「弱い者いじめ」のはたらきをするのです。

しかし、
正論を吐いている人は、相手を追い詰めている自覚はありません。

「自分が正しい」と思っていますから。

次に、「正論」が通用しない理由を考えてみましょう。

「正論」はなぜ通用しない?

「正論」を吐く人の気持ちはこんな感じでしょうか?

●「悪いことは悪い」と言って何が悪い、と思っています。
●正義感が強く、自分は正しいと信じています。
●正論ですから、相手は反論できないことは、分かっています。

だから、自分は正義の味方として、相手を言い負かすことができるのです。

これらを見ると、
「自分は相手より優れている」という気持ちが見え隠れしているのを感じます。

これを、相手は感じ取るのです。
「上から見下された感じ」です。

そのために「正論」は、「常識」なのに反発を受けてしまうわけです。
反発を受けると、物事はなかなか進みません。

そして「正論」には、
人間関係で大切なものが欠けています。

「正論」に欠けているもの

私たちが「常識」と思っているものは、
「常に、どこでも正しい」ということはありません。

「絶対に正しい」というものは、この世には存在しないのです。

その上人間は、矛盾した存在です。
正しいことが分かっていてもできないことは多いのです。

人々は皆、
自分の中に弱さや矛盾を抱えて生きています。

その弱さを抱えながら、矛盾を抱えながら、
その中で、自分ができることを探しながら、
これでいいのかと、迷いながら、葛藤しながら、
間違いを犯しながら、右往左往しながら、何とか生きています。

それが自分の姿であることを、うすうす気づいている人も、気づいていない人もいます。

少なくとも「正論」を吐いているとき、そこに気づいていません。

「正論」は、その弱い部分を糾弾することができるわけですから。

「正論」で追い詰められたとき

正論でいろいろ言われると、もう話したくないと思ってしまいます。
もう、相談もしたくないと。

そう思ったら、
その心に正直に行動するとよいと思います。

そして、

「この人は、正論が言いたい人なんだな」
「正論という反論できない立場を利用して、発散をしているんだな」
「自分のプライドを守りたいのかな」
と思いましょう

少しだけかもしれませんが、楽になると思います。

取手心理相談室
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